絵画の視線/写真の視線 土橋公三・中村功

絵画の視線/写真の視線 土橋公三・中村功
展示会期2012年11月20日[火]〜12月09日[土]
開廊時間12:00-19:00(最終日のみ17:00まで、日曜祝日休廊)
展示作家 土橋公三中村功

絵画において、写真において、20世紀中頃から今に至る人間の視線と視覚世界は、どの様な変遷をたどって現在にあるのだろうか。 そして、成長することが至上の命題となった経済の幻想が私達の世界を包み込んでしまった現在、「絵画」と「写真」は、どの様な「視線」によって可能なのだろうか。これが今回の中村功土橋公三による2人展のテーマとなっている。

〈中村功/記〉

絵画の基本要因は構造と色彩である。構造は奥行きとしてのイリュージョンと2次元としての平面との空間の関係である。色彩は滲み通って来る味や匂いのように自然から身体への感覚として流れ込んでくる感情の強度である。もう一つ、形態は現実世界を想起し、そこに意味の強度としてのどの様な物語が存在したのかを明示するものである。
私は、写真としての色彩を所有したいと言う欲望が最初にあった。絵画のように色彩そのものの写真を撮影したい。あるいは、その上で形態が言葉を発しない写真を撮影したいと考えるようになった。しかし、モチーフとしての対象が存在しなければ成立しない写真というメディアは絵画とは似て非なるものである。その対象物の存在を不在にすること。そして、対象を色彩存在に還元してしまうこと。
その様な方法の一つとして、カメラを平行に振ることで撮影する。このレンズによる「無意識の視覚」の走査力による画像の成立は「かつて見たことがない」イメージの異界として、外側からの「風景の感情」を現出しているように見えることだろう。

〈土橋公三/記〉

私は写真(映像)表現を「視線」「対象」「出来事」の3つの言葉で考えています。「視線」は、特定の個体(たとえば私)あるいは集団(としての幻想)から発せられた具体的あるいは想像的な視線(眼差し)です。「対象」とは、具体的なあるいは想像的な眼差しが到達する事物(あるいは、写真の場合、視覚的世界)です。「出来事」はその対象世界が時間性(了解)として表象される幻想的な何か。言い換えれば、私(あるいは集団的な幻想)の価値や概念や感情といった、幻想としての何かです。
しかし、(私が撮影機材もって徘徊する)現実世界において、この視線、対象、出来事がはっきりと区別可能に現象している訳ではありません。視線と対象と出来事は不可分に関係し合い切り離すことは出来ません。互いに不可欠に関連しあい補完しあうものとしてあります。 写真(映像)は、人間の眼を遙か超えてさらに高度に拡張され微細化され続ける社会的なメディアでもあります。現在の、このような視覚経験の中で、私達は、いつの間にか視覚的な「美しさ」と「過剰さ」の境界が曖昧になってしまった時代にいるのだと思います。
こうした中、個人表現(表現主体の視線)の次元にまで写真(映像)を引きつけるにはどうしたらよいかが、私の写真表現におけるテーマです。
写真(映像)を「視線」「対象」「出来事」の3つの言葉の関係として捉え、そして表現の制約をつくることは有効な手段であると考えます。視線が対象と出来事の過剰さから開放され、それによらない視覚的な美しさの経験としての写真(作品)です。