二人展

二人展
展示会期2012年09月18日[火]〜09月22日[土]
開廊時間12:00-19:00(最終日のみ17:00まで)
展示作家 青山優山本真実
備考 オープニングパーティ:18:00-19:00

「二人展」山本真実青山優によせて

阿佐ヶ谷美術専門学校 絵画科科長 中村功

山本真実と青山優はアサビの絵画表現科を卒業して、3年になる。学生時代が終わり、卒業して学生達が目指す場所は当然、「絵描き」と言われる「画 家」であるが、作品で生活は成り立たないので、あらゆる職業に就くことに成る。だが学生のときは、学校という大作を描けるアトリエがあり、すべての時間を 自分のために使うことが出来たにもかかわらず、社会に出た瞬間に「私は今まで絵を描いてきたのに、今の私は何のために生きているのだろう」という疑問に突 き当たるのが一般的である。そのような状況のなかで、絵画を描くことに関して、二人は2年あまりのブランクがあった。

普通、絵画を描くときに考える、「良い絵を描きたい」という考えを一旦かっこに入れて、青山は「大きな絵を描きたい」という欲望の度合いが強いし、山本は 現実の身を切るような社会の関係のなかでの生活から絵を描くことによって得られる「精神の解放感」の度合いが強いと思えるが、このようなことの契機が今回 の二人の結果であるといえる。 山本は学生時代に戦闘機のコクピットやそこから見える夕焼けを描いていた。そのことから、主な色彩は、イエロー、オレンジ、ブルーとなる。だが、コクピッ トから見た風景は窓越しであるし、それを抽象化した「黄昏」と題した次の絵画も窓枠のようなものがあり、同じように窓越しと言える。その窓枠は「黄昏とし て描かれたなにがしかの世界」に到達したいが、到達出来ないメタファーなのではないだろうか。それを極論していけば窓枠は抽象化した境界線になるだろう。 このような窓枠やチャンネルはこちら側と向こう側の境界であるとも言えるが、具体的には、そのような橋梁物(チャンネル)は一種の幾何形態でありながら生 命体のように感ずる時もあると言う。そのような生命体の向こう側にある世界、ある種の彼岸の世界であるが確実に終わりに近づく世界。それを称して「黄昏」 と言いたいのであろう。だから、山本の作品には一抹の寂寥感が漂う。

今回の作品には、それが薄れて来て異なった「かたち」になっているように感じられる。それは、制作することの「切実感」の欠落は致命傷となるが、作品は時 間をかけないと高密度にならない。全体を見渡してみると一点にかける時間がまだ足りないと思える。一般的な意味での抜けるような空間性の絵画を描けるよう になったとも言えるが、それだけが絵画を成り立たせるわけではない。しつこく追いかけることで生まれる空間性も重要な要素である。そこにはもちろん物質性 も存在している。

現在の青山優は「日々、生きているなかで、ドキッとしたものを描きたい」と言っている。「ドキッとしたもの」とは、ある意味、心の琴線に触れるということ だが、それは、どのようなものを見たり、聞いたりしたときなのか。青山によると、アニメ、映画、LIVE、空の色や雲の形、太陽や風など、それに小説の台 詞の言葉などとのこと。それは、今まで生きてきた自己の経験により、そのモノにあるいはその場所に対して自分なりの価値を見つけたと言えるだろう。それは 説明としての判断でなく、身体が「快―不快」のように感受性としてただ“感じる”だけなのである。

学生時代の青山は体調不良等により学校へ通うことがなかなか出来ずにいたが、作品はそのような日常を反映するように暗い精神性と装飾文様を組み合わせて描 いていた。 そのような日常世界が背景になった学生時代のような暗く重たいモノクロームの作品と比較し、今回の作品は色彩の彩度があがり、色面同士がからみ合うように 浸透している。作品そのものとして見ると色面の密度は非常に薄く見える。それは、どこかで解放され背景が異なるものになったにもかかわらず、それを感覚だ けで処理していることによると思われる。 以前の作品は、山本と同じように「切実感」があった。朴訥でも切実さのもつ迫力は捨てがたいものである。ある意味、絵が上手になっている面もあるが、失っ てはいけない面もある。「絵画はなにによって成立するのか」というもう一つの背景を認識する必要があるだろう。

今回の二人展(山本真実・青山優)をご高覧いただきありがとうございました。

再び制作を開始した二人に是非とも、ご意見を賜りたいと存じます。

是非ともよろしくお願いいたします。