きむらかおり展

きむらかおり展
展示会期2012年02月28日[火]〜03月10日[土]
開廊時間12:00-19:00(最終日のみ16:00まで、日曜祝日休廊)
展示作家 きむらかおり
備考 オープニングパーティ:18:00-19:00

きむらかおりの絵画:「その後」

中村 功

きむらかおりの特徴は、作品の価値は自分で決めるということである。こんなことは当たり前と思いがちだが、これは出来そうでいて若いとなかなか出来ない。ここ何年か絵画を事実描いてきたし、最近はとみに絵画を描くという決断が感じられる。そのかわり自由にして欲しいと言う声も聞こえる。自由ということはある意味、他者の自由も認めないと自由になれない。そのような義務を果たさなければ絵は描けないのである。それがきむらの言う自己実存と自己放棄の有様であろう。

それはグリーンバーグの「モダニズムの絵画」で言及しているように“「純粋さ」とは自己―限定のことを意味し、また芸術における自己-批判の企てとは徹底的な自己―限定のそれとなったのである。”

こうした状況を作成するには、自己を見る自己が存在し、その自己と自己の関係を見る自己が存在する自己内批評性が必要であろう。これが存在や放棄とも言えるが、次のような言い方も出来る。

自己実存は現在生きていると言う可能性も含むものであるが、表面と身体が一体化した絵画を描くとき無意識に起こりうる自己放棄は、きむらの場合、天空の彼方から垂直に見下ろせばあらゆるものが同一である彼岸の世界からの視点をイメージする。

私も絵画を描き始めたとき、絵画のなかに吸い込まれるように入っていってしまい、絵画のなかに留まるのでなく絵画の向こう側の世界に行きたい。このような絵画を描きたいと考えていた。
向こう側の世界の絵画とは、後づけであるが具体的にイメージすれば川村記念美術館のマーク・ロスコのような絵画であり、それはやはり彼岸の世界を連想する。それに宗教的意味合いはなく、現実の世界と異なる自己にとってどこか理想の世界という意味合いである。それは、我々が生活の中から、それを超えて無意識に獲得したいと願った「悠久」「普遍」「永遠」などの概念であった。

そしてきむらにはもう一つの側面がある。特に作品に顕著であるが、いろいろな場面において、きむらには「毒と裏切り」が感じられることだ。
絵画を制作したり考えたりすることで感性が豊かになることは事実である。しかし絵画には絵画の毒があり、益だけでなく、その反面、毒もまわる。きむらの描くイラストレーションや言葉にも毒がまわっている。体中に相当量の毒がまわっていることを考えるとかなり絵画に没頭しているように見える。芸術とはこのように矛盾が一体になっていることを体現していると言っても過言ではない。

それと、作品の展開の継続により、現在の作品を見事に展開することを観者としては期待するが、きむらの場合、次の展示に反映されることはまずない。見る側として、今回の展示はこのようになるのだろうと想像するが、その期待は常に裏切られる。
現在のカルチュアーが画像や映像によるイメージの強化に努めるのに対して、キャラクター的イメージを脱したイメージとして以前の作品は新鮮さを感じたものだった。だが、最近作には具体的イメージは感じられない。見る側がイメージを把持し、空間そのものや色彩そのものを感じることになるように制作されているように見える。

2年前のvision’sの個展では枯れた花「枯」のイメージがあり、まずイメージ先行であった。それは、葉「鵜原の葉っぱ」であったり、滝「よいぴんく」であったりした。
そのイメージを崩さずに、太い輪郭線や色面に置き換えて描いている。色彩は白が混じった中間色のグリーンやオーカー系の色彩をメインにして、ペインタリーというより塗る意識が強いように見えた。それは、写真によるイメージを探ることからイメージの強化と消滅を繰り返した作品だった。

だが、檜画廊の2回のグループ展の展示では、まるで様相の異なる絵画であった。それは、画面全体が蛍光カラーのフレッシュピンクで塗られた作品と濃いオーカーで塗られた作品が隣同士にあり、その色彩が対比を起こし、補色の色面を呼び込んでいた。その作品のエッジには物質性を防ぐためか、空間を止めるためか、色片が置かれている。そして、それらの作品の下地はポロックのようにポワーリングした色彩に彩られていた。それは偶然と物質と色面の空間が交差した作品であった。

今回の作品は色相や明度の異なるブルーとオーカーを基調にした作品の二種類に分けられる。ブルーの作品はよりイメージ性から離脱し、インパクトより均質性を志向しているように見える。このことにより、この作品群は平面的空間性に奥行きを感じるが、物質感の減少による均質化のためにインパクトに欠けるように見える作品もある。それとは反対にオーカー系の作品は奥行き的空間よりも物質性の強い作品に見える。クリフォード・スティルやラリー・プーンズのようにむしろ奥行きを廃し、物質的色彩による横への拡がりを感じる平面的空間性といえるのではないだろうか。

いずれにしても、空間、時間、物質、平面、色彩、身体、イメージ、偶然、ペインタリーなど、絵画として考えねばならない領域を有している事実から絵画として見ることが可能なのである。