高島良治写真展「-oneness」

高島良治写真展「-oneness」
展示会期2010年10月19日[火]〜10月30日[土]
開廊時間12:00-19:00(最終日のみ17:00まで日曜開廊)
展示作家 高島良治
備考 オープニングパーティ:9日(火)17:00~

「床の間」

優れたプロダクトデザインには様々な側面があり、そしてそれぞれが魅力的です。
たとえば気に入って買った花瓶なら、ひっくり返しても”いい”はずです。

日常使っているものでも、ひとつの”モノ”として飾っておきたくなります。
日本家屋には、”床の間”というスペースがあります。ご存じの様に、花や掛け軸を飾っておくところです。

そこで、写真で”床の間”のような役割を果たすことはできないだろうか?と思いました。
壁にかかった写真が、部屋の一部になっていくようにインテリア的な役割ができれば、自然と”モノ”のもつ意味合いも変ってくると思います。

「-oneness」

作品の雰囲気は第一印象で決めています。
壁と馴染むような感じを出したかったので、できるだけシンプルにしました。
被写体よりも、むしろ空間を楽しんでいただければ、と思います。

この写真展を見て、家に飾ってもいいな、と思って頂ければ幸いです。

高島良治の写真」 阿佐ヶ谷美術専門学校 写真工房長 中村功

高島は社会的には、広告カメラマンである。高島によって撮影された「携帯電話機」の画像は、人工的に作り上げられたように浮き上がって見える。人々からみれば、夢のような画像ともいえる。そこは、高島にとって現実の世界であり、のがれようのない場所である。しかし、個展の場所はそのような場所とは異なり、生きる意味のちがいがあるように見える。

竹田青嗣は、現実とは異なる、もう一つの世界について次のように言っている。“「ロマン的世界」を作り上げるのは、現実と、もっと素晴らしい世界への「憧れ」、というふたつの契機である。「いまここ」の世界よりももっと素敵な世界があるという直観によって、それははじめの芽を持つ。「ロマン的世界」は「いまここ」の現実、つまり日常の世界の否定と、「未来」および「向こう」の世界への「憧憬」を本質的に含んでいる。”

個展を行なうとは、社会の「現実性」や「有用性」からはみ出すようなことでもある。ある意味、現実を生きる人間にとっては「反現実」の場所でもある。個展の場所は、「関係の世界」である現実世界よりも、ある意味さらに“現実的”なもの、もしかすると切実なものかもしれないのである。

高島の写真は、基本的に視覚言語としての物、質感、形象、空間、色彩にかかわっていると思われる。高島は比較的、物の全体像を撮影せず、物の一部と背景になる空間を多く撮影対象としている。その時、意識すること、無意識であることにかかわらず、映り込むのは質感、形象、色彩であるだろう。よく言われる形相や質量について概念的に語るより、何らかの理由そのものだが、そこには、高島は何を撮影したいという欲望があるのだろうかということが気がかりである。私達が高島の写真の印象から受ける第一印象は「非常にきれいで気持ちよい写真」であるということだろう。そこには、写真の持つ透明感、ぬけるような空間感が現出しているのである。それはまさに写真のもつ特性を押し出した美しい写真であるといえるだろう。そこで言葉を変えると、きれいは〈美意識〉であり、気持ちよいは〈快感〉と言い換えることが出来る。〈快感〉は動物にとっての価値秩序であり、原始的な身体性として環境世界に対して作りあげている自然な秩序である。〈美意識〉は、私たちがきれいと認識するときには、単なる〈快感〉よりも高度な意識であることは誰にも理解出来る。それを〈美意識〉と呼ぶことも可能だろう。だが、高島の写真は、本来は〈快感〉と〈美意識〉は階層のあるものなのに等価であるように撮影されている。要するに、感覚的な感受性の世界として撮影している。それを言葉として簡単にいえば〈快感〉は〈快―不快〉、〈美意識〉は〈きれいーきたない〉と対語で考えられる。高島は写真を写真として認識するなら充分なレベルを確保していると思われるが、表現は自我の本能的な保護だけでなく、自我解体の不安や危機としとて受けとめるようなネガティブな面や「毒」を有していることを認識しておくことを今後の課題としておくことが重要であろう。

私たちは「ロマン的世界」を生きたいと欲望するが、現実は「ロマン的世界」を現実に引き下げて生きなければならないのも現実である。そこには、どのように世界を人生を時間を生き抜いてきたのかというような「人間の生きざま」が何らかの形で表現に反映されることが重要ではないだろうか。それは、「私は何故、撮影しているのか」という自問自問が今後、必要だということである。それは、言葉を変えれば、思想ということでもある。私たちは現在、失ってしまった思想を、高島だけでなく、「思想」として奪回せねばならないだろう。