yahiroyumi exhibition “yurayura”

yahiroyumi exhibition "yurayura"
展示会期2010年09月28日[火]〜10月02日[土]
開廊時間12:00-19:00(最終日のみ17:00まで)
展示作家 八尋祐美
備考 オープニングパーティ:29日(火)18:00-

あれから一年が経ち、
殆ど初めて、決定的な喪失感というものを味わったような気がしている。
しかし悲しみは無く、例えるなら嵐の後の空のような空洞があるのみである。

情けない、みっともない、惨めな気分が次々と投げ捨てられていくようで、
不謹慎にもその空洞に今は感謝している。

「八尋裕美の絵画」 阿佐ヶ谷美術専門学校 科長 中村功

学生時代の八尋祐実で印象に残っている記憶は、アトリエ(絵画表現科の教室)の白い壁面に、どのような言葉が書いてあったか忘れたが、過激な表現であったことを覚えている。現在はアサビの絵画表現かの助手であるが、作品の制作場所である助手研究室の壁面にも「どいつもこいつも」という言葉が書かれている。
八尋は、「視えるもの」を具体的に描く技術は充分に修得しており、どうすれば、画面が成立するかは認識していると思える。しかし、絵画はそのようなことだけでは成立しえない。絵画は人間の精神性の何かと交換する価値を有するものであり、自我と無意識と画面と世界の関係の産物でもあると言える。その理由は、「絵画とは何か」という抑圧、「私どうなってしまうのだろう」という可能性、またはその否定。そのようなことから自我が不安定になり、絵を描くことが出来ないという事態に陥る。だがそのような状況が絵画を迫力あるものにするということがしばしば起こることも事実である。

八尋は卒業制作展の間際でそのようなことが起こった。一筆描きの牛のような自己像、痩せた骸骨のような自己像、包まったヌードの自己像、これらは自我の安定しない自己に対する怒りの表現に見えた。
だが、そのような怒りの表現とは別のインパクトを感じられる作品があった。”木”を描いた作品(「私にわかっている事といったら、自分のことばかりで」)であり、自己像とは異なるイメージを感じた。それは、内容よりも表面をかすめ取った映像のような絵画だった。当人は、そのような意識は全くなく、”木”を自己のイメージ(心象)で描いたにすぎない。

吉本隆明は心象の周辺について、次のように語っている。

「〈夢〉(固有夢)と〈心象〉とが決定的にちがうことは、〈夢〉は夢みるひとが欲するかどうかにかかわりなく現れる睡眠(入眠)時現象であるが、〈心象〉は想像するひとがそれを欲し思念しなければやってこないという点である。
これは〈心象〉の有意味性をネガティヴに性格づけている。〈心象〉は想像するものと、それに関係づけられている対象のあいだの結束点としてあらわれるかぎりでは、有意味性であるが、想像するものが意志しないかぎりでは、有意味的であるが、想像するものが意志しないかぎりやってこないという意味ではネガティヴなものといえる。」

八尋はイメージの結節点が見えないために、有意味的に思念してはいないので、作品を見る人からは、まるで入眠時の固有夢のように感じられることである。
このような単なる入眠時の無意識性から、描く世界(視える世界)と描かない世界(視えない世界)を描き分けることで、フィルムの表面をなぞったような画面が現出したのである。それは内容ではなく、”視ること”を拒んだ結果、表面しかない絵画となった学生時代の作品と凝視することを受け入れた現在のDMで使用した”木”の作品(「なんだかすばらしいもののように思えた」)は似ているようで非なるものである。「SAIKYO Line」の作品も「少女、帰宅」の作品も”視ること”を拒んだ作品であるといえる。

その原因はどのようなことだろう。最大の理由は自我の安定にあると思える。そのことにおける現象は、描く度合い(どのように描くのだろうか)の不在ということだろう。学生を客観視出来ると同時に経済も客観視出来ることから、自己の客観視出来る状況が生まれたのである。その全体像を当人が認識し、把握していることが前提になる。だが、私の見る限り、前述した通り、今まで描いている絵画はほとんど入眠時に見る像のような無意識である。これを認識のレベルの次元の範疇に上げる、または括弧括りにすることが次のステージにステップアップすることになるだろうと思える。

この展覧会をご高覧された方々、是非とも、忌憚のないご意見を賜りたいと存じます。